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家康の「出世城」浜松城へ

浜松城では秀忠も生まれいている

家康の人生にとってのキーとなる重要な城が浜松城。その浜松城で、家康は命からがら逃げ帰る三方原の戦いや、信長に命じられての妻子の殺害などドラマチックな日々を送っている。それでも今では「出世城」として注目

三方ヶ原の戦いに敗れ命からがら逃げ帰った浜松城

 もし、晩年の徳川家康にインタビューで「もっとも印象に残る戦と思い出の城は何?」と尋ねることができたなら、答えは多分、「三方ヶ原の戦いと浜松城」だろう。
 家康は1562(永禄5)年、織田信長と清洲同盟を締結。さらに武田信玄の駿河今川領への侵攻を機に武田氏と同盟を結び遠江を手に入れる。当時の浜松にあった引馬城を落城させ、1570(元亀元)年、浜松城を築いて入城する。信玄が上洛するためには家康は目前の敵となり、ついに雌雄を決する三方ヶ原が火ぶたを切る。
 多勢に無勢で家康は命からがらに浜松城逃げ帰るが、この時、あまりの恐怖から馬上で脱糞したという。家康はわざわざ顰像(しかみぞう)という肖像画を描かせ、生涯の戒めにしたという。
 家康の浜松城時代には、信長から正室・築山御前と長男・松平信康に武田内通の嫌疑を受け、愛する2人を失っている。また2代将軍となる秀忠も浜松城で生まれているからまさに家康激動の時代。
 それでも地元・浜松市が「立身出世の城」と宣伝するにはちゃんとワケがあるのです。

家康29歳~45歳に在住した城は浜松城

 浜松城時代の苦難を乗り越え、天下人となった家康。
「浜松城が出世城と呼ばれるのは、家康の拠点、秀忠の誕生、そして江戸時代に浜松城に入った譜代大名の城主25代のうち、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行2人と立身出世を遂げているからです」
とは、地元浜松のボランティアガイドさんの解説。
 というわけで地元では「立身出世の城」としてPR中だ。
 東海道の要衝を守るという点から江戸時代の城主が出世街道にあるというのは当然だろう。
 浜松城の城郭は西北の最高所に天守曲輪、東に本丸、二の丸、三の丸と階段状に曲輪を配していた。本丸を中心とした城跡は浜松城公園として整備され、天守曲輪には内部が博物館となった復元天守が建っている。
 公園に設置された家康像も「若き日の家康石像」。
 29歳~45歳、在城17年の間には、三方ヶ原合戦敗北、妻築山御前の死など、さまざまな試練があり、城下にも犀ヶ崖古戦場、秀忠誕生の井戸、家康公鎧掛松、築山御前終焉の太刀洗の池などが残されている(写真参照)。

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