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徳川家康生誕の地・岡崎城&岡崎城下へ

家康の天下取りの出発点は三河統一の拠点、岡崎にある!

家康が徳川と名乗る前は松平元康。徳川に改称したのは1566(永禄9)年、三河国を統一していから。なぜ岡崎から家康の天下取りは実現したのか? 岡崎を旅してその真相に迫ろう!

三河統一を果たした松平家康は、徳川に姓を改めた

 家康が徳川と名乗る前は松平元康。徳川に改称したのは1566(永禄9)年、三河国を統一していから。
 そのルーツは、三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の土豪だ。岡崎に進出したのは1531(享禄4) 年、西三河の地盤を固めた松平氏第7代当主・松平清康(家康の祖父)が城主となってからのこと。
 家康は第8代当主・松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれている。岡崎公園となった城内には産湯の井戸も残されている。家康の父・広忠は尾張の織田氏の侵入を防ぐため、駿河国の今川氏に従う。そのため幼き家康(竹千代6歳)を人質として駿府城へ移している。
 家康は元服も駿府城だったが1560(永禄3)年、桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元が討たれると、家康は岡崎城に入り、三河国の支配へと乗り出す。岡崎は家康誕生の地であり、天下取りの拠点ともなった大切な土地なのだ。
 ちなみに徳川家康は、1616(元和2)年、駿府城(現在の静岡市の中心、駿府公園)で没。というわけで、2015年は没後400年にあたる。

初めて岡崎城主10万石の大名となったのは秀吉の家来だった!

 岡崎の町は矢作川(やはぎがわ)が南北に、その支流の乙川(おとがわ)が東西に流れている。
 乙川と矢作川の合流地点にある龍頭山に15世紀の中頃、三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が砦を築いたのが岡崎城の前身。竹千代(家康)が生まれた当時の岡崎城は櫓も茅葺(かやぶ)きで堀にも石垣がない粗末な城だったという。
 現在の城郭を築くのは、家康が関東に封じられた後、1590(天正18)年、豊臣家臣・田中吉政が入城してから。関東の家康に対する防備もあって、近世的な城郭が築かれ、東海道を城下に移すなど町割りも変えている。
「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれる屈曲する街道も実は、家康軍の進軍を阻止するのが狙い。豊臣方が整備した城を徳川幕府の世になり、家康誕生の城として崇めるようになったのは歴史の皮肉。
 とはいえ、三河湾の塩も運んだ矢作川の舟運は家康の三河統一に欠かせない宝だったのは間違いない。
 岡崎城には、コンクリート製の復元天守のほか、徳川家康(幼名は竹千代)の産湯の井戸、博物館の「三河武士のやかた家康館」などもあり、一帯は岡崎公園として整備されている。

大樹寺・伊賀八幡宮・六所神社・法蔵寺をハシゴ

 岡崎城下には松平家・徳川家康ゆかりの寺社が数多い。
 徳川家(松平家)の菩提寺で、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されるのが大樹寺(だいじゅじ)。家康も「位牌は大樹寺へ」と遺言している。桶狭間の戦いで今川軍が敗走した際に、今川方の人質で大高城に今川軍の兵糧を運び込んだ家康は、この大樹寺に逃げ込み、先祖の墓前で自害して果てようととするが、住職に諭されて思い留まったという。寺の三門の直線延長上には岡崎城天守閣があり、今もその姿を眺望できる。
 伊賀八幡宮は、松平家の第4代当主・親忠(ちかただ)の創建で、松平家の氏神。3代将軍・家光は、東照大権現(家康)を伊賀八幡宮に祀っている。地元では開運の勝神様として有名で、勝守も授与してくれるのでお見逃しなく。
 安産祈願で知られる六所神社は、家康誕生の際に産土神として拝礼し、その後、社殿も寄進しているゆかりの社。
 少し離れるが本宿も法蔵寺もゆかりの寺だ。

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